国際協力を仕事にして10年以上経ちましたが、留学時代を含めると海外在住歴は13年ほどになります。日本を離れ、異国の地で生活していると大きな2つの変化があります。1つは日本人であることを強く再認識するという変化。そして、もう一つは誰が何人だろうがどうでもいいと思えるという変化です。
まず結論から言うと、日本は狭っ苦しいことばかり言って難民認定しなかったり、二重国籍を認めなかったり、在日韓国人を抱えているけど、現代の鎖国と言われても仕方がない。
日本人であるということ
福岡伸一さんの本にアナタはご本人様でいらっしゃいますか〜動的平衡の中で考えるというのがあります。これは全国FM放送協議会加盟全38局が参加するFM FESTIVALの企画講演会である「未来授業〜明日の日本人たちへ〜」を電子書籍化したもののようです。
ここで福岡さんはこう尋ねるんです。「アナタはナニジンで何人種ですか?」と。みんな日本人と答えるわけですが、興味深いやりとりが繰り広げられます。ポイントは日本人である何かがあるのではなく、日本人であるかどうかは関係性の中で定められるということです。国籍を拠り所にする人も多いかと思いますが、日本国籍を有していなくても日本語を普通に話し、日本に長年住んでいる人も日本人といえなくもないわけです。
また、女性自身という雑誌のウェブ版にこんな記事がありました。 ぼくは宮本エリアナさんという方もミスユニバースについても全然知らなかったのですが、少なからずショックを受けました。それと同時に、日本ではあり得る話だという印象も受けたのも事実です。
この夏始まるリオデジャネイロ五輪。活躍が期待される日本代表の選手の中にもハーフの選手がいます。彼ら彼女らはどういう目で見られるのでしょう。ハーフのタレントもすっかり増えましたが、この記事にもあるとおり日本を居心地が悪いところと感じる人がいるのも事実でしょう。
ナニジンであろうと関係ない
外国にいると最初の頃は自分が日本人であることを強く意識し、もともと日本国外に向けられていた関心や好奇心のベクトルが日本に向き始めます。日本についてあまりよく知らない自分を痛感するものです。でも、時間が経つと変わってきます。
外国の地で仲良くなる友人や知人が何人であるか大して気にならなくなるんです。そして、意外と日本人のようにはっきりとしたアイデンティティを持っているのは少数派でもあることに気がつきます。例えば両親が国際機関に努めるような家庭では、生まれはスイス、就学前まではケニア、小学校はザンビア、中学校に上がる前にスリランカで過ごし、高校はヨルダンで大学は一人でアメリカに、、、、なんて子もいます。親は父がマレーシア出身で母はイギリス人とか。
そんな中ではもう自分が何人で相手が何人であるかはどうでもよくなってくるんです。むしろどんな人か、何をしているかに関心が湧いて個人主義的になります。
そんな経験をすると日本人が日本という狭い世界で独自のガラパゴス社会を築いていると感じてしまいます。別にどちらがいいとか悪いかの問題ではなく、事実としてそうなんじゃないかということです。どれだけグローバルと言われる時代になっても日本はやはり鎖国が好きなんですよ。