おはようございます。タカハシ126(@takahashi126)です。
ベイルートとかレバノンと聞いて、人は何を思い浮かべるか?
日産、三菱自動車、ルノーなどの会長を務めるカルロス・ゴーンさんがブラジルへのレバノン移民の子孫で大学前までベイルートで生活していたとか知っている人は、カルロス・ゴーンさんを思い浮かべるかも。
サッカー好きな方は日本代表が優勝した2000年のアジアカップを思い出すのかな。レバノンが開催国だったから。
それら以上に、もしかしたら多くの人がぼんやりと思い浮かべるのは内戦かもしれない。僕がベイルートと聞いてぼんやり思い浮かべるのはやっぱり内戦だから。でも、映像や写真で内戦の様子をみた記憶はない。
15年続いた内戦
レバノンでは1975年から1990年まで内戦があった。内戦の経緯やどのような展開となり、どのように終わったかというのはなかなか複雑なのでいつか丁寧に書いてみたいが、今回は1975年に内戦が始まった頃の戦いとその名残を振り返る。
15年という長い間血で血を洗うような戦いは様々な傷だけを残しあらゆるものを破壊したのだろう。この内戦で自警団というか戦闘部隊のようなものを成長させた宗派やグループがあったとしても。
他の内戦や紛争と比較しても15年の内戦というのは長い。
例えばユーゴスラビア連邦が徐々に解体されていったユーゴスラビア紛争は1991年から2000年、その中でクロアチア紛争は1991年から1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1992年から1995年、コソボ紛争は1996年から1999年。
始まりはホテルの戦い
内戦終結から25年以上が経った今でもベイルート市内では内戦の爪痕を見ることができる。
レバノン内戦は別名「ホテルの戦い(Battle of the hotels: Wikipedia)」とも言われている。
Wikipediaのこの記事に日本語訳がないので、自分で撮った写真でホテルの戦いを振り返ってみたい。
舞台は、今では綺麗に再開発されているベイルートのヨットハーバーZaitunay Bay近郊は素敵なホテルが立ち並ぶ場所。
重厚なロビーと一流の空気が漂うPhenicia Hotelの裏にHoliday Innがあったらしいが、今ではこんな状態。
木に隠れるように佇む右手のビルがPhenicia Hotel。左手のビルはMonroe Hotelという別のホテル。間に今でもそのまま残っているのは、今ではホテルの戦いの象徴の一つのようになっている以前のHoliday Inn。
Monroe HotelのHP(ホテル名をクリックすれば飛びます)にはZaintonay Bayの全景写真が使われているのだが、その多くの写真には亡霊のようにこのHoliday Innが写っている。それを見るととにかくでかい。
このPhenicia HotelとMonroe Hotelの間の道を進んでHoliday Innを眺めるとこんな感じ。
小さな弾痕と崩れかけている壁がとても生々しい。これを壊さない、あるいは再開発しない理由はあるのだろうか?
裏手に回ると物々しい雰囲気は増す。
自動小銃を抱えたレバノン軍の兵隊がいるからバッチリ写真を撮るのは憚られたためちゃんと写真は取れなかったものの、ビルの下に車両が止まっているのがわかると思う。ビルの下には軍の車両と戦車が数台あった。入り口には監視小屋のようなものが建てられていて、中には人影がある。
再開発が進むこの地域でひときわ異彩を放っている。
Holiday Innホテルは周囲のビルに比べてもひときわ大きく見晴らしがきくため、一方の民兵(キリスト教系)が1975年10月に占拠したらしい。この時、隣のPhenicia Hotelも同じ民兵組織が入城(!?)したようだ。それに対するように近隣のホテルに別の民兵組織が入りその間で激しい戦闘が行われたようだ。
この戦いで左翼ムスリム系民兵組織とパレスチナ解放機構(PLO)がアラブ諸国からの支援を受け抵抗力を誇示した。キリスト教系の組織が作るレバノン解放戦線がその力をだいぶ過小評価していたとのことだ。
15年にも及ぶレバノン内戦がこのホテル密集地帯で過激化し、その後ベイルート全市に広がっていくことになるという。
終わりに
僕はベイルートにいる間、このHoliday Inn跡の近くのホテルに投宿している。通勤はHoliday Innの裏手を毎日歩く。
今では平和で歩いても怖いことのないくらいなベイルートのホテル地域だが、40年前にここを歩くつホテルから弾丸が雨のように降っていたわけだ。それも弾痕が生々しく残る建物を見上げていると決してそれほど遠い昔のこととは思えない。
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