おはようございます。126(@takahashi126)です。
さて、AERA1冊からのブロガソン、3本目です。
欧米には「左遷」に当たる言葉はありません。そこには日本独特の労働文化、雇用慣行が密接に関わっている
楠木さんによると、日本は「組織のバランス重視」による長期雇用、欧米は「職務内容を明確した」専門性に基づく雇用という大きな違いがある。
開発ワーカーを10年続けた実感
開発ワーカーを10年ほど続けて感じることと、楠木さんの話はかなり符合するところがあります。
ぼくら開発ワーカーは自分の売り、自分の専門性、自分の経験を武器に仕事をとります。
教育、ジェンダー、環境、水、貧困削減、農業など、様々な分野で知識と経験を積み重ねた人がその道の専門家として仕事をするのです。
そのため、職務内容も明確に規定されることが多いです。なんでもやる、というのではなく、「この分野のこの業務を行いこのような成果を出すこと」といった職務内容であり業務指示が与えられるわけです。
ただし、同時に組織バランスを重視する側面もなくはありません。その組織で業務をした経験があることはプラスと捉えられるという点は、組織のバランスを重視する証の一つでしょうか。それは日本の援助機関だからということもあるかもしれません。
日本でいわゆる会社勤めをしたことはないのですが、関わった組織の正規職員を見るとこのコラムで述べられているような組織のバランス重視に基づく人事が行われているという印象があります。
人材育成はどこでするべきか
長期雇用が前提の多くの日本企業では、配置転換を繰り返しながら人材育成と組織活性化を図ってきた。(コラムより)
国際協力業界において、国際機関や一部の二国間援助機関の就労形態を垣間見てきて思うのは、職務内容に応じたポスト制が広く一般的になっているということです。
自分の専門性、職歴、経験に応じて、あるポストで求められる職務内容を満たしているとされる場合、そのポストに応募し競争において人選されるという形です。人事の役割は、応募者の中から最も適切な人材を選ぶということでしょうか。
これは、多くの社員や職員がいる中で人事のやりくりをするのとは違って、専門性や経験に基づく競争があります。
つまり、人材育成というか能力強化や自己研鑽は個人の嗜好するベクトルに応じて個人の責任でするものだという前提があります。
ぼくは個人的な経験からそのような人事制度のほうが望ましいと思っています。
それは実際にぼくがそういう制度に近い形で、2、3年に一度仕事を探し、就労しているからかもしれません。
今も、自分の知識を高め、また価値を高めるため、通信で修士課程に通っています。
例えば、国連でも職員とされる人でも、ポストがなくて仕事から溢れる人もいます。そうなると数ヶ月、あるいは数年仕事がないわけです。
中には食いっぱぐれる人もいるでしょう。でも、能力と経験に基づき、特定の業務をしっかり行っていく人材を適宜採用するという体制は健全だと思います。働く方もそれだけ真剣に取り組まないと明日はないわけです。
しかし、そのような人事制度は腐敗を生むとも言われます。次のポストを見つけるために、上司などに媚を売ったりするわけです。結果的に、能力と経験に基づく人事と言っても人の感情が影響するわけです。
一見厳しそうですが、人の世では捨てる神あれば拾う神もあります。賄賂はなくとも、コネや人間関係や過去のしがらみで仕事探しもするわけです。
これからの働くはどうなるか
さて、最近しみじみ感じる事ですが、今の労働環境はぼくが大学生だった頃からは想像できないほど異なります。
大学を卒業して約20年。たったこれだけの間でこんなにも変わった労働環境。息子や娘が大人になる20年後にはどんなになっているでしょう。
これは子育てをする親として決して看過できない課題です。今、小学生くらいの子供達は将来大学に行く必要があるのでしょうか。
結婚するちょっと前まで妻とは子供達が大学に行ければいいなぁ、なんて話していましたが、今は決して大学に行かなくても「生きる力」が身につけば何をしたっていいと思っています。
子どもたちが大人になった時、どのような労働環境でどういう就労形態になっているのかあまりうまく想像できませんが、親の勝手な理想としては人事なんていう他力に左右されずに自分自身の道を自分で切り開いてほしいと思います。
理不尽な人事の理由なんて、クソクラエです。
そのためにもオレの背中で身をもって語れるようにぼくも左遷とは無縁、正規労働とは無縁なナリワイ作りにチャレンジしたいと思うところです。
今日の結論、日本独特の労働文化、雇用慣行にはさようなら!
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