今まで1年以上住んだのはインド、ザンビア、タンザニア、エチオピアの4カ国。それぞれの国での仕事環境や立場、つまり給与や待遇が異なるので簡単に比較はできないけど、ちょっと振り返りながら比べてみました。
まずはインド。大学院生として2年、国際協力NGOの駐在員として1年、在外公館の委嘱員として1年弱の計4年ほど過ごしたインド。インドといえど亜大陸と言われるほど広く、文化や習慣も多様なので一括りにするのは大変。学生として過ごしたタミルナードゥ州はスリランカに近く、ヒンドゥー語排斥運動もあったくらい文化的に一風変わった州で、南部4州の中でもだいぶ保守的なイメージがあります。
倹約大学院生活
学生の時は大学の寮に住んでおり、生活は120%ローカル。インド政府から支給される僅かな奨学金で食いつないでいました。博士課程にはケニアやタンザニアなどからの留学生はいたものの、修士課程の留学生は日本人である僕と一人のガーナ人だけで、ガーナ人はインド人と一緒に行動するのを最初から避けていたので、僕の行動範囲、消費性向などはすべてインド人のローカルと全く同じ。1日5ルピーも使わない超倹約生活。
大学は保守的な田舎の大学で、女子生徒と立ち話をしているだけで変な噂が立ったり、女子寮に届けられる手紙はすべて検閲されたり、となかなか凄いところでした。聞いた話では、女子生徒に届けられる手紙に好きだの惚れただのということが書かれていると、実家の親に連絡が行くことになっていたとか、、自由恋愛禁止を勧めるかのような大学だったんですねー。
開発協力への関心の一つが、村落部での貧困削減だった僕は、村落開発とプロジェクトマネジメントが学べるこの大学に来たのですが、村落地域の社会習慣に大学生活で色々と学ぶことにもなったので、それは大きなプラスでした。その大学院に留学した日本人は僕が初めてだったのですが、その後勤めた日本の開発協力NGOでの繋がりもあり、僕が知る限りその後2人の日本人が留学しました。
喧嘩も毎日ようにしてましたが、今考えると日本の当たり前を押し付けるような独善的な主張が原因となった喧嘩も多く、反省するところも多いです。恐らく青年海外協力隊を経験した人と同じような現地・現場の実情と開発の理想や支援する側の都合との間の意識の違いやジレンマなどと似たような現場経験ができたのではないかと今では思います。振り返ると大学院留学の最初の2年間は、インド生活の中でも草の根に密着したとても有意義な時間でした。
英語での生活に慣れたのもこの頃だと思います。インド人の英語はわかりにくいとよく言われますが、その英語に一番なれ親しみつつ、自己表現を英語でする毎日、英語で勉強する毎日を通じて自分なりに英語を身につけ始めた頃でした。
とにかく動き回るNGO時代
その後のNGO業務では、定住地もなく、移動オフィスのように全てをスーツケースに詰め込み、チェンナイ、バンガロール、ハイダラバード、プーネ、ムンバイなどを転々としつつ、支援団体を回り、新たな提携先NGO候補を視察し、助成金獲得(ファンドレイジング)のために在外公館等を回る生活。楽ではなかったけど、普通のホテルに泊まれたので、生活レベルは学生時代の超倹約から中流的消費性向にシフトしました。
この頃は新しい活動を展開していく基盤を作るために、なるべく沢山の活動を見て、沢山の人に会い、繋がりを作ろうとしていました。来る日も来る日も事務所訪問と活動視察を行いつつ、自分たちの理念やビジョンを説明し活動のマッチングができそうか確認する毎日。駆け出しの若造が必死で営業をしていたというところでしょうか。まだ、あまり具体的な開発事業に携わってはいなかったけど、現場の最前線で限られた経験を生かしながら、自分で試行錯誤しつつ出来るやりがいのある仕事でした。
また、事業評価や活動評価など、モニタリング・評価についても経験を積むことができた時代です。今、改めて社会的インパクト評価、RCTなどのインパクト評価を用いた、社会事業の展開が一般的になりつつありますが、当時はDACの5項目評価を中心に、事業の妥当性、インパクト、持続性がどれだけのものかを評価しつつ、助成金申請の準備等をしており、今でも自分の血肉になっていると思います。日本ファンドレイジング協会が設立した准認定ファンドレイザーの資格を2013年に取得し、NPOやNGO活動の資金調達を支援したいという考えはこの頃の活動の影響も強いと感じています。
生活レベルが一転、在外公館での契約業務
NGOでの仕事を通じて在外公館での契約業務があることを知った僕は、NGOでの駐在員契約が延長できなかったため、これに申請。運良く受かったため、草の根無償資金協力委嘱員(現在は草の根・人間の安全保障無償資金協力、外部委嘱制度についてはこちら)としてムンバイに住むことになった。それまで使っても100ルピー札、しかもそれは大金だったので慎重にしか使えない、という生活だったのが、500ルピーを夕食に使うという生活レベルにまで急上昇して大きな心理的なショックを受けたのを覚えています。
仕事はNGOよりも書類作成が多く、かつ理路整然と事業の必要性と妥当性を説明する必要があったため、事務処理という面で非常に良い経験になりました。一方で、事務所仕事が多くなり、あまり現場に出るという機会がなくなったのが残念なところでした。ただし、ここでの経験がなければ今の僕は無かったと言っても過言ではありません。9ヶ月と短い契約でしたが(個人的な事情で契約延長せず帰国しました)、この9ヶ月が非常に濃いものでした。
インドからアフリカへ
インドに住んでいたのは1999年7月から2002年4月までと既にだいぶ前のことになってしまい、今のインドの状況とは随分違うかと思います。最後にインドを訪れたのは、仕事でデリーに行った2004年です。
ただ、当時は国際協力の世界で村落開発、貧困削減といえばアフリカなしでは語れない!という変な固定観念があり、これから国際協力の仕事をするにはアフリカで経験を積まねばならないという考えからアフリカを目指すことになりました。